太平洋戦争終結により、東京の空に平和の戻った1945年。帝都急行電鉄株式会社、のちのセラコムは焼け野原の広がる都内から再出発した。
当時、帝都貨物電軌から帝都急行電鉄へと名称を改めたこの会社は、東京大空襲の損害によって全車両の実に七割を焼失していた。このことは再出発の勢いを止める最大の原因となっていた。こうした状況から脱するため、国鉄より統制会を通じて所謂63形電車の導入を行うことで対応することになる。
戦前の帝急と言えば、その独特の軽快感ある風貌から“空飛ぶ帝都民”という愛称でおなじみだった100形電車が有名であるが、戦争の始まりとともにその姿を消してからは、これと言って目立ったもの無い1私鉄へとその身を落としていた。
新しく帝急の仲間入りを果たした63形は新しく“ボ2630形”と言う車号を手に入れ、混雑の予測される北千住ー宇都宮間に投入された。わずか8両であったものの20m4扉と言う大柄な車体は非常に都合の良いものであった。
しかしながら「いつかは自社車両を・・」という願いは社員一同切なるものがあり、1950年に入ると、本格的に自社開発に向けたプロジェクトが始動することになるのである・・・
1959年、戦後10年以上が過ぎた鉄道界は最初の前進をはじめようとしていた。カルダン駆動のいわゆる「新性能電車」の登場である。国鉄はもとより各私鉄はこの時代、このような新車開発に力を注いでいた。
こうした中、鹿島地域一帯の観光開発を行っていた帝急は、戦前のボ100形以来滞っていた新型特急電車の開発を行っていた。
こうして1960年に、大きな愛称板とライトを掲げて誕生したその新型車両の名は“50000形”とされた。
これがその50000形である。
言わずともわかる方もいるであろう。
そう。開発に当たって参考にしたデザインは、当時の最新型特急電車である国鉄の20系電車、のちの151系電車なのである。
帝急初のカルダン駆動車となったこの50000形は、高級感と軽快さを併せ持つという意味でデラックス・スワローカーと呼ばれるようになる。
50000形の投入は、帝急の新時代を予感させた。
帝急は次に木造車のひしめく通勤形車両の置き換えに着手することになる。
当時の国鉄の通勤車と言えば新性能と、鮮やかなカラーリングを売りとした101系電車が登場した頃であった。
この頃、私鉄各線でも新性能車の開発が盛んになる中、50000形をもとに新しい通勤形車両として完成させたのがボ2640形である。
旧型車と設計面では同じため、見かけで新しさを伺うことはできないが、この何の変哲も無い車両から帝急新性能通勤電車の幕が開いたのである。
東急7000形・・・ステンレス製車体の登場は、通勤車両の新時代を作りだした。
このステンレス技術は各私鉄でも導入の話が持ち上がり始めていたが、中でも鹿島臨海部を走る帝急にとって海風は車両の天敵であり、ステンレス車両は喉から手が出るほど欲しい代物であった。
こうした中、2640形の基本設計を基に製造されたのがセミステンレスカー“ボ2900形”なのである。
ステンレスカーは当時東急車輌がほぼ独占的なシェアを持っており、価格が高いとして導入を渋る中、帝急がこれを導入出来たのは、戦前の東横車両時代から車両の供給を受けていた関係で、ステンレス車両の供給に際しても支障無く導入出来たという経緯を持つ。
1961年に登場したボ2900形は初期に4両が制作された。以下が初期の編成図である。
ボ2900形は両開き戸とオールステンレス製車体試験のため1963年に2両が増備されている。
最終的には以下のような編成となった。
ボ2900形は10年ほど試験された後、3000形に組み込まれて余生を送る。
1963年・・・ボ2900形を基にして帝急初のオールステンレスカー、3000形が登場した。
最大の特徴は流線型を基調とした、三つ折れになった前面構造と、上下が中折れになった六角形状の車体であろう。
一見すると東急5200形と似た側面であるが、コルゲートは腰部と屋根肩部のみで扉は両開きを採用したため、パイオニア台車とあわせて同年にデビューした京王3000形に近くなっている。
この形式は特にその奇抜なデザインから1964年にローレル賞を受賞した。
上に挙げたものは「初期通勤車」と呼ばれるグループ。幹線向けに15編成が一挙に投入され、登場当初は正面裾部のライトやステップ、連結器などが従来車と同様であったが、後に量産化改造が施され、一般に「中期通勤車」と呼ばれるグループと同様の顔つきとなった。
下に挙げたものがその改造後である。 3000形というとまず出てくるのがこの顔であろう。
登場後、圧倒的な存在感を放った3000形は、着々と幹線区での勢力をのばしていった。
この時期、帝急では50000形を用いた既存のIC「インターシティ」とは別に、特急料金の要らない優等種別「通勤高速」を導入。主にビジネス客層を狙う戦略に出る。
この試みは、いわば高級列車であったICを普遍的なものにするという挑戦であった。
さて、3000形には俗に「初期通勤車」「初期近郊車」「中期通勤車」「中期近郊車」「後期通勤車」と呼ばれる5つのグループに分けることができるのであるが、このうちの「近郊車」と付くグループが、この「通勤高速」に用いられることとなる。
この「近郊車」は5本に1本の割合で、2扉仕様の車体で存在していたことは有名な話であるが、これは「通勤高速」の導入によって誕生した形態であったのだ。
1972年、帝急は初の20m級形式3500形を投入した。
片側4扉という構造はあのボ2630形以来である。かくして帝急は大型車の導入という終戦直後の大願を果たしたことになる。
3500形は首都圏近郊のニュータウン地帯を走る駒沢線を中心に投入され、「ニュータウンカー」と呼ばれることになる。
しかしこのことは、一世を風靡した3000形の時代の陰りを印象づける出来事であったと言えるだろう。
「ニュータウンカー」3500形電車の登場で、1980年代初頭に首都圏の主要路線から急速に居場所を失った3000形は支線系統に残留していた2640形を追い出す形で回されていく。
この中には3500形登場後に製造された車両も存在し、最終増備車に至っては登場からわずか3ヶ月で葛西線に転属となった。
このタイプはそれまでの仕様と比べコルゲートを減らした他、戸袋窓を廃し、側面には最新仕様の方向幕装置を付けての登場であった。
しかし、近郊形の5進番号編成には居場所が無く、各地方鉄道に流されることとなる。一部は富山地方鉄道や長野電鉄に特急車として移籍したものの、大部分が解体となった。
近年、小田急10000系HiSE「長野電鉄2000系」導入で引退し、長野電鉄に最後まで残った1編成がセラコムに里帰りし、他の保存車両とともに展示保存されることが決まるなど、嬉しいニュースもある。
葛西線に残留していた3000形も、2000年のATS化を機に路線形態が一変。20m4扉車に車両を統一すべく、当時最新の6000形電車が登場すると、21世紀を待たずして3000形の歴史は幕をおろした。
現在成急を離れた3000形は、富山地鉄や北陸鉄道、弘南鉄道で残留し、同輩の東急7000形や京王3000形などとともに、その余生を全うしている。
富山地方鉄道10040系
北陸鉄道8000系0番台
長野電鉄3000系
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