特集記事2:11000形の系譜

Chapter1:京浜神奈川電気鉄道

「京」神のKと京「神」のS。中心の丸とそれを包み込むCの形の組み合わせでElectricのEを。 全体の丸いスタイルで鉄道車輪を表す。
「京」神のKと京「神」のS。中心の丸とそれを包み込むCの形の組み合わせでElectricのEを。 全体の丸いスタイルで鉄道車輪を表す。
コーポレートマークは人が走るようなKを図案化したものとなった。意味は下図参照
コーポレートマークは人が走るようなKを図案化したものとなった。意味は下図参照

京浜神奈川電気鉄道。通称「京神電車」は、1930年に川崎臨海部の工場地帯における輸送手段として新橋〜東神奈川間に開通。以後、戦時中に一時大東急に併合されるなどの状況を経て、戦後はニュータウンである「相武庭園都市」開発や観光誘致を目的に相模湖や小田原へと路線を延ばしてゆく。これが現在の当社首都線や小田原線へと受け継がれる事となる。

Chapter2:川崎のフランケンシュタイン

大東急時代に京神の車両はすべて8000番台に集約されており、再スタートを切った京神はまず、国鉄から 払い下げられた63形電車を用い、イメージの一新を図るべく新形式とした9000形を投入する。

63形から車体更新を行い、それまでとは全く違った出で立ちとなった9000形の塗装は、それまでのぶどう色の車両からも一線を画すものとなる。相武庭園都市のシンボルカラーであるさわやかなエメラルドグリーンと、臨海部のシンボルカラーである浅葱色のツートンカラーは斬新なもので、登場当時から沿線住民より「フランケンシュタイン」の名で呼ばれる事となる。

このカラーリングがその後の京神のイメージを沿線住民に植え付けることに成功し、以後このカラーで新製車がデビューする事になる。

これに続く形で1957年、京神電車に新たな形式が誕生する。新型車両は9000形から形式を進め10000形とされた。車体は9000形の20mに対し18m級と短くなったものの、両開き戸の採用や丸みを帯びた先頭形状等、9000形から大きく前進した。

10000形は残存する8000番台車両を大量に置き換えるべく、急ピッチで生産が進められていたが、ここで新たな課題が生ずる事となった。

Chapter3:相武庭園都市開発とNS car

1950年代はニュータウン造成の黎明期と言える。関東、とりわけ神奈川北東部及び東京都多摩地域を含めたいわゆる「多摩丘陵地帯」は東急電鉄の「多摩田園都市」小田急電鉄の「林間都市」、相模鉄道の「緑園都市」そして帝都急行電鉄の「多摩ベッドタウン構想」等、多くの都市開発が構想されていた。

こうした中、京神電車もまた独自の都市開発である「相武庭園都市」開発構想という横浜の三ツ沢から大和市の深見にまたがる広大な地域の開発を進めていた。

こうした中、増加が見込まれる沿線需要に今のままの18m級車両では対応出来ないと考え始める。こうして10000形を基にニュータウンを想定した新形式が望まれるようになった。

必要とされた要素は以下の点である。

  1. 20m級で両開き片側4扉車体である。
  2. 今後の需要増加を想定し、編成増強をフレキシブルに対応出来るようにする。
  3. 2編成併結を前提に、増結も想定し最大10両編成まで対応させる。
  4. 将来の冷房化を前提に開発

10000形から進んで「11000形」とされたこの形式は、今後の標準車両となる期待を込めてNS[ニュースタンダード]carという愛称が付けられた。

9000形で実績のあった同社において、自社発注では初の20m級通勤電車となった。

10000形をそのまま20mに伸ばしたようなこの車両は、目新しさこそ感じないものの、宅地造成を開始したばかりの「相武庭園都市」開発における輸送力拡充には充分すぎる成果を発揮する。

10000形を基本に製造された11000形の変化を見る。正面の意匠は非常に似ているが、11000は尾灯や前照灯の位置などが異なるため、少々おとなしめの表情となった。

その後10000形の増備は続いたものの、運行系統は小田原線専属となり、主役の座を早々に11000形に譲る事になる。


Chapter4:最初の変化と冷房化

1960年代も後半に入り、11000形の編成数が25編成を超えた頃、最初の変化が訪れる。

前照灯の下部に新たに前照灯と同形の灯具を設けたのである。この時、現在まで知られる11000形の「顔」が形成された。

これは優等車両に投入される事が多くなり、それによって優等種別等を各車両に取り入れるようになったからである。

上部二灯は従来通り前照灯として機能し、下部の二灯は優等種別等として活用するが、この当時は11000形が優等運用に入る事が殆どであり、ほぼ四灯すべてを点灯させ走っていた。


さらに、1970年代になるともう一つ大きな変化が訪れる。「冷房化」である。

当時、通勤電車の冷房化施行割合はまだまだ低く、京神も出遅れた企業の一つであった。

特に夏場のラッシュ時間帯の車内気温上昇は、従来の扇風機と窓開放だけでは到底防ぐ事ができない状態となっており、都心と横浜という二つの大拠点を結び、京浜工業地帯の重要な輸送力を担っていた京神としては、一刻も早い冷房化が叫ばれていた。

こうした中、1977年にようやく冷房装置を搭載した11000形の生産を開始、初期編成も順次搭載改造を施されてゆく。

なお、10000形に関してもこの間に優等種別灯設置と冷房装置追加工事が平行して行われた。

また、これに合わせて9000形の近代改修工事が施行され、不燃化改造、前照灯の設置によって顔つきが大きく変化している。

Chapter5:臨海交通の主役へ

こうして1979年までに4両編成84本、336両が生産されたところで増備が終了した。

この時点で相武線は20m級の11000形および近代改修された9000形、小田原線はすべて18m級の10000形という構成になり、京神全線での近代化が完了した。

 

11000形は名実共に相武線の主役となり、京浜輸送の主役としても大いにその役割を果たす事になる。

Chapter6:受け継がれるDNA〜13000形の登場〜

1980年、11000形を基に車体をフルモデルチェンジした13000形が登場した。

 装備において、一段降下窓や、側面表示器、ボルスタレス台車、コンビネーションランプなど11000形から大きく飛躍し、新しい京神の顔となる事が期待されたが、9000形を置き換えるために4両編成18本が生産されただけにとどまる。

しかしながら13000形の登場を契機に、主に正面側面への表示器設置をはじめとした11000形の改修工事が始まる事になる。

Chapter7:新時代突入〜京神電車から京神高速鉄道へ〜

1993年、京神電車は体制を一新し、同時に京神高速鉄道として再スタートを切った。経営体制の悪化というのが実際のところであり、この時株式の大半を握った成急電鉄と後に統合する事になろうとは、この時は夢にも思わぬ事であった。

 

CIをはじめとした多くを変更し、21世紀を見据えた先進的なロゴマークを目指し「K」を抽象化したシンプルでシンボリックなものになり、カラーについても同じ浅葱色のベースではあるものの、若干の変更がなされた。

しかしながら、なによりも変化したものは車体カラーであろう。それまでのコーポレートカラーを前面に押し出した通称「フランケンシュタイン」から完全に脱却し、アイボリー地にコーポレートカラーにホワイトと薄い青緑色のラインを配したスタイリッシュなものに変更。この青緑の組み合わせはフランケン時代のカラーをそのまま彩度を上げたものとなっている。


対象は廃車間近となった9000形から最新の13000形まで波及し、1995年までに保存対象の休車を除いた全車が変更を完了した。

Chapter8:寿命延長

90年代に入ると11000形でも初期のものは経年劣化が激しく、改修を必要とする車両が増加する。これは普通鋼製の車体の性とも言えるが、東武鉄道8000形等他社のそれと同じく京神でもまた前面意匠を中心とした近代改修がおこなわれた。

Chapter9:老兵最後の成長〜10両化へ

京神電車の車両は元来、4両編成を基本として増備され、新形式もそれにそった形で製造されてきた。これは、観光地である相模湖方面の旅客量がオフシーズン時に大きく変動するために柔軟な編成組み替えが必要であったためである。この方式は2007年に15000形(現在の17000形)が10両編成で導入されるまで続く事になる。

しかし、相武庭園都市開発も成熟期に入り、住宅地では上り線で慢性的な混雑がネックとなってゆき、いよいよ2編成併結では収容量が追いつかない状況となった、このため2001年、京神は相武線の全編成への10連化改造を開始、足りない車両については当時最新鋭であった14000形ベースの中間車両を組み込みこれを補完した。

Chapter10:車体更新の果てに

近代改修を施した11000形のうち、後期に施行されたものはUVカットガラスの一枚窓化や前照灯のHID化、車内の化粧板を最新のものへの交換等、内外ともに最新形式とほぼ同等の状態に変更された。

もはや外観で原型を想像する事ができないほどに変化を遂げることで、変化する時代に適応させたのだ。


Chapter11:京神時代の終焉〜首都急電鉄グループ誕生〜


2010年に首都圏私鉄3社を統合し、首都急電鉄(セラコム)が発足した。

京神はこれに先立って2009年に成急グループに統合され、車体CIの変更が順次行われる事となった。

変更は他の各社と同様に窓下への二本線の追加が行われたが、フューチャーアイボリーはそのままとなった。これはCI調整時の段階で他車の車両と合わせてグレー系への変更も考えられたものの、視覚面での印象が悪く、また老朽化から発足から10年以内に廃車が見込まれたこともあっての措置であった。

Chapter12:引退

2013年3月、11000形は老朽化を理由に引退した。

登場以来京浜地帯の成長を見守ってきた老兵が去るとあり、さよなら運転には多くの人々が沿線を訪れた。11000形は晩年も多くの編成が首都線に残留したが、後期に更新された編成を除いてオリジナルの車両は新製の新9000形によって置き換えられてゆく事になった。旧京神電車時代に旧9000形の勢力圏を奪いつつ拡大したことからも、同ナンバーの車両によって置き換えられるというのは皮肉なものである。

 

オリジナルの車両は営業から引退後、登場時復元が行われ4両に再組成改造を受けて編成ごと松戸に新設された首都急博物館の所有となった。

年に数度のお披露目と運転を行い、興行活動に尽力している。

セラコム移行後の11000形